お遍路忘備録

お遍路で気がついた事、意外な事など

美しいハーモニーとか

繁多寺で読経していた年配のご夫婦の読経が、サイモン&ガーファンクルのようにハモっていて驚いた。

旦那さんは落ちついたテノール、奥さんは澄んだアルトで、不思議と不協和音が無いのだ。多分、いい感じに周波数が倍音になっているのだ。まさに奇跡である。


太山寺では、役者さんが山伏か何かを演じているかのような、聴き易くてよく通る声で読経している年配の男性も。真言が素敵。


さらに螺貝を吹いている男性も。


残念な人もいて、石手寺で地べたに座り込んでひたすらに読経する年配の女性は、なんかこう、どうしても嫌な気分になる調子だった。すごく不思議。

音量でいけば、前者3例も同程度なのに不快に思えない。

声質がそもそもよろしくないのかもしれない。聴き易い声は、複数の周波数が倍音になっているからだ。歌が上手い人の類いもそう。喉が枯れすぎて、ザリザリしてききにくかったり掠れ声だったりも、倍音にはならない。

大き過ぎる声も、これみよがしに「聴け」と注意を向けさせられて不快に繋がるし、高低差がありすぎるのも良くないらしい。

どちらかというと、人に注意を向けさせる有様に不快感があるのかもしれない。そして「なんだこの読経は」と注意を向けた先には、地べたに座り込んだ婆様がいたら、うっ、、てなるわけだ。


もしかしたら托鉢なのかもね。そう考えると納得が行く。本堂でやらないのは目立ち過ぎるから、正々堂々托鉢するのは大抵の寺では禁止だが、読経するだけなら追い出されないけど、心優しい人が何かをお布施するかもしれない。石手寺は、道後温泉にも近く、観光客も多いから、勘違いしたお金持ちの外人さんもいるかもしれない。外人さんからしたら、立派なストリートパフォーマーだ。道で音楽してる人は、警察に追い払われる可能性もあるが、寺に警官は来ない。


本物の修行をしている人かもしれないが、何も通る人が皆、おやってなるようなやり方をしなくてもいい筈だ。修行は人に見せつけるものではないと思うしな。


境内で平和活動をしている人もいたので、もしかしたらそっちの方の人かなとも思った。